幸田門跡
お堀端通りの中ほどにあります。
幸田門は、江戸時代には小田原城・三の丸の門のひとつでした。北条時代から江戸時代前半にかけては、この門が小田原城の大手口であったと考えられています。
現在、幸田門は道路や建物の下に埋もれてしまっていますが、その東側に続く三の丸土塁が小田原郵便局の裏側まで残り、当時の面影を伝えています。
幸田とは、もともと神礼の費用を賄う田んぼのことです。
三の丸土塁
国指定史跡
小田原城跡 三の丸土塁
指定 昭和13年8月8日
この土塁は、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。当時は、本丸、二の丸(現在の城址公園周辺の範囲)を包むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸としていました。この土塁は、三の丸の土塁が残されている数少ない場所のひとつです。 この場所の西側に幸田門という三の丸の入口がありました。その跡の一部が発掘調査で見つかっています。 戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時には、この幸田門から小田原城を攻めたと考えられています。北条氏康・氏政父子は、籠城策を用いてこれを退け、小田原を守り抜きました。
小田原城跡 三の丸土塁
指定 昭和13年8月8日
この土塁は、江戸時代の小田原城の三の丸の土塁跡です。当時は、本丸、二の丸(現在の城址公園周辺の範囲)を包むようにお堀と土塁を巡らし、三の丸としていました。この土塁は、三の丸の土塁が残されている数少ない場所のひとつです。 この場所の西側に幸田門という三の丸の入口がありました。その跡の一部が発掘調査で見つかっています。 戦国時代に上杉謙信や武田信玄が小田原城を攻めた時には、この幸田門から小田原城を攻めたと考えられています。北条氏康・氏政父子は、籠城策を用いてこれを退け、小田原を守り抜きました。