この地名は、小田原城絵図の一つである「加藤図」(1614~32年)に「とくえ山」の名で初めて見られます。 また、「延宝図」(1675年)には、現M・R・Aハウスアジアセンター付近の外、ここに大きく「小峯山」と記しています。 明治年代などの地籍図では、「字毒榎」または「毒榎平」の名で見られます。この地は、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻め(豊臣秀吉が九州征伐後に全国統一の総仕上げとして、関東最大の勢力であった小田原北条氏を滅ぼした戦い)に備えて設けられた大外郭ができる前までは、小田原城の最西端にあたる場所でした。西側には巨大な空掘と土塁が今も残っており、小田原北条氏時代(北条早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直の北条氏5代(1495~1590年))の小田原城にとって、この地が重要であったことがわかります。 なお、昭和年代には小峯森林公園や小峯浄水場となったところです。「毒榎」は、アブラギリの別名で、菜種油が普及する以前に防水用の油の原料として、広く植えられました。毒榎平と「毒榎」の名との関連は、はっきりしていません。
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