北条氏とは・・・
小田原にゆかりのある歴史上の人物といえば、北条氏です。北条早雲をはじめとする北条氏は、鎌倉時代の執権をつとめた北条氏とは遠い血縁関係にあるものの直接の後裔ではないことから、のちの史家が両者を区別するために、「後北条」「小田原北条」と呼ぶようになりました。
北条氏の歴史
1495年、大森氏を退け、初代である北条早雲が伊豆韮山から小田原城に入り、小田原を中心に産業を興し、着々と勢力を伸ばしていきました。それから二代目氏綱、三代目氏康の時代には、小田原は関東における政治、経済、産業、文化の中心として繁栄しました。天下統一の機運が高まる中、四代氏政・五代氏直は、豊臣秀吉軍の攻撃に備えて町全体を取り囲む巨大な総構を築きましたが、1590年、約18万の大軍に小田原を包囲され、約100日に及ぶ籠城戦の後、小田原城を開城し北条氏は滅亡しました。
徒歩 ▼ 2分
▲ MAP
氏政と氏照は、豊臣秀吉が小田原を攻略したときに責任を負って自刃しました。墓地内には、江戸時代に造られた五輪塔や笠塔婆型墓碑1基・石燈篭、生害石1個(長115cm、幅78cmー氏政・氏照がこの石上で自害したと伝わっています)があります。
徒歩 ▼ 5分
▲ MAP
幸田門は、北条氏時代の最初の大手門(おおてもん)と伝えられています( 大手門とは正門のこと)。三代目北条氏康の時代に、上杉謙信や武田信玄の攻撃を受け、この幸田門から攻め込まれ二の丸まで進入を許したそうですが、小田原城を攻め落とすことはできませんでした。現在は、遊歩道となっています。
徒歩 ▼ 3分
▲ MAP
小田原城天守閣に行くには、正規の登城ルートというものがあります。
駅からお城に向って一番近い紅い橋「学橋」を渡らずに「馬出門土橋」を渡って馬出門をくぐり、銅門、常盤木門を通って天守閣に向かうのが正規のルートでした。学橋から直接天守閣に向かうより、往時の登城気分を味わえます。
1. 馬出門土橋(うまだしもんどばし)
馬出門(うまだしもん)にかかる橋。
2. 馬出門(うまだしもん)
馬屋曲輪(うまやくるわ)へ通ずることからこの名が付いたとみられます。馬出門は、馬出門と内冠木門(うちかぶきもん)の二つの門と周囲を石垣と土塀で四角に囲んだ「桝形門(ますがたもん)」形式の門です。敵の侵入を阻む構造となっています。平成21年に復元。
3. 馬屋曲輪(うまやくるわ)
曲輪内には砂利が敷かれ、「馬屋」と呼ばれる徳川将軍家用の馬小屋と、「大腰掛」と呼ばれる二棟の建物(従者の詰所、番所)、見張りや倉庫などに使う「二重櫓」がありました。
4. 住吉橋
銅門(あかがねもん)にかかる橋。
5. 銅門(あかがねもん)
内仕切門(うちじきりもん)と渡櫓門(わたりやぐらもん)と土塀で周囲を囲む「桝形門(ますがたもん)」の形式です。土塀には敵を射る為に狭間(さま)と呼ばれる穴が開いていて、そこから門に侵入した敵を射ることができます。2つの門は直線で結ばれておらず、敵が角度を90度変えて進まなければならない構造となっているため、進軍すると正面の門からと、土塀から横矢の攻撃の両方を受けるようになっています。
6. 常盤木門(ときわぎもん)
小田原城本丸の正門にあたり、重要な防御拠点であったために、他の門と比べても大きく、堅固に造られていました。多聞櫓と渡櫓門を配し、多聞櫓は武器等の貯蔵庫として用いられていました。古地図などから江戸時代初期からあったことが分かりますが、1703年の大地震で崩壊した後、1706年に多門櫓と渡り櫓から構成される桝形門形式で再建されたものが、明治3年(1870)の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれています。現在の常盤木門は、明治時代初期に撮影された写真などを参考に復興したもので、昭和46年(1971)に完成しました。
常盤木門内に造られた歴史観光施設「常盤木門SAMURAI館」では、甲冑や刀剣などの武具に特化した展示やプロジェクションマッピングも放映されています。
7. 小田原城天守閣
江戸時代に造られた雛型や引き図を基に昭和35年に復興されました。昨年平成の大改修が終わり、耐震補強され、城内の展示もリニューアルされました。城内は、美術館のような趣で小田原城の歴史や戦国時代の様子などを展示やドラマ仕立てのシアター映像で紹介しています。
徒歩▼ 20分
▲ MAP
このコースの近くにある商店街のご紹介
<番外編>
ちょっと距離がありますが、時間のある方は是非こちらの方にも足を伸ばしてみてください!
▲ MAP
▼
JR早川駅から徒歩約50分
または
箱根登山鉄道入生田駅から徒歩約60分
駐車場有
観光シーズンには小田原観光回遊バス
「うめまる号」運航予定
▲ MAP
豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。この城が、石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き志気を失ったためと言われています。しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。現在は、史跡公園として整備され駐車場も完備しています。
また、公園の入り口には、有名なパティシエ・鎧塚俊彦氏の「一夜城Yoroizuka Farm」があります。畑と地産地消を目指したパティスリー・ブーランジェリー・直売所を備えた、レストランがあります。足を運んでみてはいかがでしょうか。